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『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー)⑤ …第1部、第2編、第5~6節…

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『カラマーゾフの兄弟』読了計画の第5回は、
第1部、第2編「場違いな会合」の、


第5節、第6節。
ゾシマ長老が庵室に戻って来るところから始まる。



第1部、第2編、第5節「アーメン、アーメン」


【要約】
ゾシマ長老は25分ほどで戻って来た。12時半を過ぎていたが、まだドミートリーの姿はなかった。庵室では活発な議論が交わされていた。おとなしくしていると自分から誓ったフョードルは、約束通り口をつぐんでいたが、まだ帰らずにいるミウーソフに向かって、「帰ろうにも帰れませんな。頭のいいところを見せてやれるまではね」と嫌味を小声で言って楽しんでいる。庵室での議論は、教会的社会裁判とその権限のおよぶ範囲に関する問題についての本を書いたある聖職者に対し、イワンが反論したことから始まったようだ。イワンの主張は、「裁判のような問題で国家と教会がなんらかの妥協を行うことはありえない」「聖職者は、教会は国家の中で一定の正しい位置を占めていると言っているが、それとは逆に、教会こそ自らの中に国家全体を含むべきであって、国家の一部分を占めるだけであってはならない」「国家は明らかにキリスト教社会の今後の全発展の、直接的でもっとも重要な目的として提示されるべき」というものだった。これに対し、ミウーソフが「法王全権論じゃないですか!」と叫び、ヨシフ神父が「ロシアに法王なんていませんよ!」と声をあげ、そこにパイーシー神父も加わり、議論は白熱化する。するとゾシマ長老が口を開き、「懲役刑というのは誰一人矯正できない。有害分子は機械的に切り離され目の届かない場所に追放されると、同じ場所にすぐまた別の罪人が現れる。キリストの社会、すなわち教会の子として自分の罪を自覚することによってのみ、罪人は社会そのもの、すなわち教会に対する自分の罪を自覚するのです」と言い、「教会裁判が実際に日の目をみ、それが全盛期を迎えたなら、教会裁判が、今では考えられなくくらい犯罪者の更生に影響をもたらし、犯罪そのものも減少させることになる」と述べる。ミウーソフは黙って議論を聴いていたが、いきなり口を開いて、「社会主義的なキリスト教徒っていうのは、社会主義的な無神論者よりおそろしいんです」というパリの秘密警察の長の言葉を紹介する。「すると、あなたは、私たちを社会主義者だとおっしゃるわけですな?」と、パイーシー神父が訪ねたとき、ミウーソフがこの答えを思いつくより先に、庵室のドアが開き、(だいぶ遅刻した)ドミートリーが入ってきたのだった。

私はキリスト教徒でもないし、ここで行われる議論にそれほど興味はない。(コラコラ)
一般にドストエフスキーは、敬虔なキリスト教徒(正教徒)だと考えられているが、
〈本当だろうか?〉
と思う。
ドストエフスキーの神やキリストに関する言及は過剰だからだ。
その裏に「何か理由がある」ようにも感じるのだ。


第1部、第2編、第6節「どうしてこんな男が生きているんだ!」


【要約】
ドミートリーが入ってきた。ドミートリーは、感じの良い顔立ちをした28歳の青年だが、年齢よりは老けて見えた。筋骨たくましい、素晴らしい体力の持ち主だが、その顔には病的な色がにじんでいた。父フョードルと、長男ドミートリーは、妖艶な美人グルーシェニカをめぐって争っており、フョードルは長老にドミートリーの非を訴える。ドミートリーはフィアンセがいながら、妖艶な美女の家に通いつめ、(借金までして)この女に大金をつぎこんでいると。さらに退役した大尉に暴力をふるったことも暴露した。怒り心頭に達したドミートリーは、この大尉に暴力をふるったのは、父フョードルが大尉を使って、グルーシェニカにドミートリーを監獄にぶち込む提案をしたのだと言い、「ぼくを監獄にぶち込みたがっているのは、単にぼくに嫉妬しているからなんだ」と訴える。フョードルは、「おまえがわたしの息子でなかったら、即座に決闘を申し込んでいるところだ」と言うが、ドミートリーは父に向って、「心の天使であるフィアンセを故郷に連れて帰り、年とった親父の面倒でもみてやろうかとね。ところがいざ会ってみれば、これが自堕落な女好きで、下劣きわまるコメディアンときた!」と罵る。すると、フョードルは、「ドミートリー君、君はご自分のフィアンセからこの『淫売』に乗り換えた、つまり、君のフィアンセですら彼女の靴裏にも値しないって、ご自分から宣言されたわけだ!  淫売とやらもなかなか捨てたもんじゃない」とわめき立てた。ドミートリーがうつろな調子で唸るようにつぶやく。「どうして、こんな男が生きているんだ!」。醜悪きわまりないドタバタ劇は、まったく思いがけないかたちで落着する。長老が席を立ち、ドミートリーの前でひざまずくと、ドミートリーの足もとへ意識的な深いしっかりしたお辞儀をし、地面に額までつけたのだ。自分の足もとにひれ伏すなんて、いったいどうしたことだ? ドミートリーは「ああ!」と叫び、両手で顔をおおったまま部屋から飛び出して行った。他の客人たちも狼狽のあまり長老に別れの挨拶もせずに部屋を出て行った。この後、院長との食事会が予定されていたが、ミウーソフが欠席すると言うと、フョードルの方が「遠慮させていただくにはあなたじゃなく、私です」と言ったので、ミウーソフを含む全員が食事会に向かった。

この第1部、第2編、第6節は、きわめて重要な節で、
要約には入れなかったが、フョードルがゾシマ長老に、
(シラーの『群盗』の登場人物に例えて)息子たちを紹介する描写がある。


「神のごとく神聖このうえない長老さま!」と、フョードルがイワンを手で指しながら叫んだ。「これは、わたしの息子です。わたしの血と肉を分けた息子です。わたしの最愛の肉でございます。これは言ってみれば、わたしが敬愛してやまないカール・モールであります。そしてこちら、先ほど入ってまいりましたこちらの息子が、あなたにいま裁きをお願いしておりますドミートリー、こちらはもうまったく尊敬できないフランツ・モールです。二人ともシラーの『群盗』の登場人物でして、となると、このわたしはフォン・モール伯爵ということになりましょうか! よろしくご判断のうえお救いください! お祈りばかりでなく、あなたの予言も必要としております。(第1巻185頁)

この部分がよく解らなかったので、シラーの『群盗』について調べてみた。
『群盗』は、フリードリヒ・フォン・シラーの戯曲で、シラーの戯曲第1作となる。全5幕。


【あらすじ】
舞台は18世紀中葉のドイツ。モール伯爵の息子で熱血漢のカールは、それまでの放蕩生活を悔い父に謝罪の手紙を送るが、家督の相続を狙う冷血な弟フランツはこれを握りつぶし、代わりに父からの勘当を報せる偽の手紙を兄に送る。カールは絶望し、仲間のシュピーゲルベルクにかどわかされて盗賊団の結成に加わり、その頭首に選ばれる。カールたちは悪事を犯しつつ義賊的な活動も行う。一方フランツは、カールの恋敵であったヘルマンと共謀して、父に兄が死んだという偽の報告をする。父はフランツの策略に気づくがなすすべなく、塔の中に幽閉される。
その後カールは恋人アマーリエに再会するために帰郷し、変装して父の屋敷を訪れ、アマーリエがまだ自分を愛していると確信する。カールは召使からフランツの悪行を知り、フランツと対面しようとするが、盗賊団に屋敷を囲まれたことを知ったフランツは自死する。しかし助けだされた父も、カールが盗賊に身を落としていたことを知るとショック死してしまう。そして盗賊団との約束からカールが自分といっしょになれないと知ったアマーリエは、カールに自分を刺させる。アマーリエを殺した後、カールは盗賊団を抜けて自首すると宣言する。(Wikipediaより引用)


ドストエフスキーは、10歳のときにモスクワで『群盗』の舞台を観て、強烈な印象を受け、
その後何度もこの舞台を観たという。
この『群盗』の中に、兄カールを陥れ、その許嫁を奪い取ろうした邪な弟フランツが、
「何がいちばん重い罪か」と牧師モーゼルに問うたとき、牧師はこう答えたという。

「一つは、父殺し、もう一つは、兄弟殺しです」

この言葉が、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を執筆する上での、
キーワードになり、テーマになったのではないか?
『群盗』で、象徴的な意味において「父殺し」の罪を犯すのは弟フランツなので、
フョードルは、
長男ドミートリーを(悪玉の)弟フランクに例え、
次男イワンを(善玉の)兄カールに例えたのだが、
フョードルが「女たらし」で「分別のない」「嘘つき」な男だと知っている読者には、
どう映るのだろう?
これからの物語の展開次第では、逆のパターンになることも考えられる。
『カラマーゾフの兄弟』の冒頭で、
フョードルは「悲劇的な謎の死をとげ」と紹介されており、
「フョードルを殺したのは誰か?」というミステリー要素もある小説なので、
今後の展開が本当に楽しみになってきた。


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