小説のタイトルも長いし、作家の名前も長いし、
今回は、カテゴリー名の「一人読書会」はタイトルから外すことにした。
これでも、サブタイトルのスペースはキチキチなのである。
『カラマーゾフの兄弟』読了計画の第2回は、
第1部、第1編の、第1節と第2節。
いよいよ本編が始まる。

第1部、第1編、第1節「フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ」
【要約】
アレクセイ・カラマーゾフは、この郡の地主フョードル・カラマーゾフの三男として生まれた。父親のフョードルは、女たらしで、分別のない男だったが、今から13年前に悲劇的な謎の死をとげている。彼は二度結婚し、三人の子どもをもうけた。フョードルの最初の妻は、
資産家で名門貴族ミウーソフ家の才女、アデライーダで、ロマンチックな妄想から、フョードルをよりよい未来へ向かう過渡の時代に生きる勇敢でシニカルな男性であると勘違いして駆け落ちし、子をもうける。だが、妄想はすぐに覚め、自分が単に夫を軽蔑しているだけで、それ以上なんの気持ちも持ち合わせていないことに気づく。そして3歳になるミーチャ(ドミトリー)を残したまま、貧乏で死にかけていた神学校出の教師と駆け落ちする。すると妻の持参金をせしめていたフョードルは、自宅にハーレムを築いて大酒盛りを繰り広げ、一方では寝取られ亭主という滑稽な役どころを人前で演じていた。やがてペテルブルグにいた妻が死んだという訃報に接すると、フョードルは嬉しさのあまり通りに駆け出し、ルカの福音書の一節を叫んだという。一方、傍目にも見るに忍びないくらい泣きじゃくっていたともいう。自分が解放されたのを喜ぶのと、解放してくれた妻を忍んで泣くのとは、フョードルにとっては同じことなのだ。どんな悪党でも、私たちが思うより素朴で純真であるのかもしれない。
今回の「一人読書会『カラマーゾフの兄弟』」は、
(『魔の山』のときとは違って)各節ごとに要約しながら読みたいと思っている。
……というか、「要約を主目的」として読み進めたいと思っている。
『カラマーゾフの兄弟』をただ漠然と通読するだけなら、あまり意味がない。
読むからには、しっかり理解しながら読み進めたい。
理解しながら読み進めるのには「要約しながらの方が良い」と、或る人から教わった。
要約するには、一つひとつの単語や概念を理解していないとできないし、
内容もしっかり把握しておかないとできない。
要約という作業を丹念に行うことで、
『カラマーゾフの兄弟』を自分のものにできるというのだ。
第1部、第1編、第1節「フョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフ」では、
フョードルの人となりが紹介され、
アルコール依存、お金への執着、女好きであること、
恥じらいのない「分別のない非常識人」と断じられる。
だが語り手は、フョードルのことをそう言いながらも、その非常識ぶりを、
なにかしら特別の、ロシア的なといってもよい資質なのだ。(第1巻17頁)
と、書き添えている。
ドストエフスキーは、フョードルのことを「殺されても当然の男」とは思っておらず、
むしろ、生命力あふれるロシア的なものとして捉え、
フョードル(=ロシア)を肯定しているかのような印象すら受ける。
第1部、第1編、第2節「追い出された長男」
【要約】
フョードルが3歳になるドミートリーをほったらかしにしたことで、ドミートリーの世話を引き受けたのはカラマーゾフ家の下男グリゴーリーだった。あるまじきことに、最初のうちは母方の親類までがドミートリーを忘れていた。ところが、死んだアデライーダのいとこにあたる資産家のミウーソフという男が偶然パリから戻って来た。ミウーソフはドミートリーという子供がひとり残されていることを知って、子供の養育を引き受けたいと申し出る。ミウーソフがそのことをフョードルと話し合ったとき、フョードルは(嘘か誠か)いったいどこの子供の話をしているのかまったくわからないという顔をしていたという。ドミートリーはこうして母の従兄弟にあたる伯父ミウーソフに引き取られるが、この伯父には家族がなく、すぐにパリに帰ったので、ドミートリーは従姉の一人にあたるモスクワの婦人にあずけられる。この婦人もやがて死に、ドミートリーはすでに嫁に出ていた娘の一人に引き取られた。ドミートリーは、少年時代、青年時代を通りて乱れた日々を送ってきた。中学校は中途退学、陸軍の幼年学校を出て軍務についたが決闘騒ぎを起こして降格処分になり、
その後将校になったものの酒でお金を使い果たし、借金もしていた。成人に達してから自分の財産の持分をめぐって父フョードルと話し合うが、フョードルはドミートリーに少額の金を渡してその場を誤魔化す。その後も小遣いと一時的な仕送りでお茶を濁していた。やがて、ドミートリーは自分に残された財産がゼロに等しいことを知り、呆然自失となる。
ドミートリーは打ちのめされ、不正や嘘がないかと疑い、我を忘れ、気も狂わんばかりになるのだが、
まさにこうした事情こそがのちの悲劇を生み、その悲劇を叙述することが、わたしのこの導入的な意味をもつ第一部の主題ないし、より正しくは骨格をなしているのである。(第1巻29頁)
と、語り手はこう予言する。
この言葉は後々まで憶えておきたい。
