2019年12月12日の夜は、
令和元年最後の満月であった。
満月には、
月ごとに名前がついていて、
1月: Wolf Moon/Old Moon(狼が空腹で遠吠えをする頃)
2月: Snow Moon/Hunger Moon(狩猟が困難になる頃)
3月: Worm Moon/Sap Moon(土から虫が顔を出す頃/メープル樹液が出る頃)
4月: Pink Moon(フロックス/Phlox というピンクの花が咲く頃)
5月: Flower Moon(花が咲く頃)
6月: Strawberry Moon(イチゴが熟す頃)
7月: Buck Moon(雄ジカの新しい枝角が出てくる頃)
8月: Sturgeon Moon(チョウザメが成熟し、漁を始める頃)
9月: Harvest Moon(収穫の頃)/Corn Moon(とうもろこしを採取する頃)
10月: Hunter’s Moon(狩猟を始める頃)
11月: Beaver Moon(毛皮にするビーバーを捕獲するための罠を仕掛ける頃)
12月: Cold Moon(冬の寒さが強まり、夜が長くなる頃)
12月はコールドムーンと呼ばれている。
自宅から、安物のデジカメで、コールドムーンをパチリ。



冬の月を見ていて、
思い出すのは、アート・ペッパーの「ウインター・ムーン」。

【アート・ペッパー】(1925年9月1日~1982年6月15日)
カリフォルニア州ガーデナ生まれ。
アメリカのジャズのサックス奏者。
1940年代よりスタン・ケントン楽団やベニー・カーター楽団で活動を開始する。
1950年代には自己のコンボを結成し、
ウエストコースト・ジャズの中心的な人物として活躍した。
生涯を通じて麻薬中毒によりしばしば音楽活動が中断されている。
1960年代後半を、
ペッパーは薬物中毒者のためのリハビリテーション施設シナノンで過ごした。
1974年には音楽活動に復帰し、
再び精力的にライブやレコーディングをおこなった。
1977年に初の日本公演を行う。
このときの日本のファンの熱狂的な歓迎にペッパー自身が非常に感動した様子が、
3番目の妻ローリー・ペッパーによって筆記された自伝『ストレート・ライフ』(1980年)に記されている。
1982年6月15日、脳溢血により死去。
アート・ペッパーは、
もともと、日本では人気のあるジャズ・サックス奏者であったが、

1950年代半ばからドラッグに溺れ、逮捕、投獄、更正施設と、
スキャンダルまみれの人生を歩んでいる。
1970年代半ばに復帰するが、
問題だらけのペッパーは、
いくら人気があっても(麻薬問題に厳しい日本なので)来日公演など不可能な状況であった。
1977年に初来日したときも、
カル・ジェイダー・グループのゲストという形であったし、
入国が許されるかどうかも分からないので、
ポスターにもペッパーの名は印刷されていなかった。
それを見たペッパーは、ひどく傷つく。
〈私が日本で人気があるというのは、真っ赤な嘘ではないか……〉
と。
屈辱にまみれた心情で、
郵便貯金ホールのステージに立つ、アート・ペッパー。
そのときのことを、自伝『ストレート・ライフ』には、こう記してある。

僕はのろのろとマイクに向かって歩き始めた。
マイクに行き着くまでの間に拍手は一段と高まっていった。
僕はマイクの前に立ちつくした。
おじぎをし拍手のおさまるのを待った。
少なくとも5分間はそのまま立っていたと思う。
何とも言えないすばらしい思いに浸っていた。あんなことは初めてだった。
あとでローリーに聞いたが、彼女は客席にいて観客の暖かな愛をひしひしと感じ、子供のように泣いてしまったという。
僕の期待は裏切られなかったのだ。
日本は僕を裏切らなかった。
本当に僕は受け入れられたのだ。
やっと報われたのだろうか。そうかも知れない。
たとえ何であったにしろ、その瞬間、今までの、過去の苦しみがすべて報われたのだ。
生きていてよかった、と僕は思った。
この初来日時の好印象によって、
アート・ペッパーは親日家となり、
その後、幾度となく来日している。

「ウインター・ムーン」は、
1980年9月3日、4日にバークレーで録音されたもので、
ペッパー55歳にしてはじめて実現したストリングスとの共演作である。
1982年6月15日に亡くなっているので、
死の2年前の作品ということになる。
いろんな経験を経て、ペッパーの音楽は浄化され、
凍てついた冬空で銀色の輝きを放つ月の光のように、
聴く者にふりそそいでくる。